【2011年3月11日】あれから7年、私たちは日本人が本来持つ思いやりや絆を取り戻せたのだろうか?

【2011年3月11日】

名古屋でも多くの人が体感した、『目まい』のような揺れ。当時私はスーパーマーケットの一社員で、100円均一のカゴ内の商品を整理している時でした。

『あれ…?俺今日体調悪いのかな…』

周りを見渡すと、高齢のお客様が座り込み、

天井から吊り下げられた商品広告が大きく揺れています。

『地震だ……!!何だ?今の揺れ?』

すぐに携帯で調べると、マグニチュード8.3というニュースもあれば、9.0と報じるサイトも。

『とんでもないことが起こってしまった…』

次々と飛び込んでくるニュースと目を疑うような映像に、

『また、行かなければ…』

高1の時も、阪神大震災で神戸に独りで行き、支援活動に従事した経験があります。

あの経験が少しは活きないだろうか、

自分にできることは何だろう…

会社には迷惑をかけましたがすぐに辞表を出し、思いを分かち合える仲間とまずは少人数で被災地へ向かいました。

原発のことがあったので、山形経由で石巻へ。

『…………!!!』

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神戸の焼け野原も壮絶な光景でしたが、

津波に全てを飲み込まれた街の姿は言葉では言い表せない惨状。

水も食料も全く現地では調達できないので、

5日間ほど支援活動をして一旦名古屋に帰り、また別の仲間と合流してもう一度東北に向かう、という生活。

それからも、時には多人数、少人数、そして単身で。

最初はガレキの撤去、その後は心を軽くするタッチケア、そしてカウンセリングをはじめ心のケアへ。

石巻、福島、岩沼、気仙沼等で5年に渡り数十回の支援をさせて頂きました。

忘れられないのは、震災から一ヶ月後の石巻での出来事です。

3〜4人のチームに分かれ、個人宅の玄関先に堆積したヘドロを撤去する作業で、

『少し休憩を取ろう』

仲間たちと近くの公園で昼食を摂ることにしました。

コンビニもスーパーも破壊され、ライフラインが復旧していないので、全員10〜30キロの水を持参。

食料も、缶詰やカロリーメイト、パンなど。

厚手の合羽を着ていますが、まだ四月の石巻は寒く、汗が冷えます。

震えながら食事をしていると、通りすがりの女性が

『身体、冷えるんじゃない?お湯持ってこようか?カップラーメンとかある?』

『お茶も持ってこようか。ちょっと待っててね』

そしてお湯、温かいお茶と一緒に松前漬けを持ってきて下さいました。

『汗かいたでしょ。塩分とってね』

『名古屋から来てくれたの?大変だったね。ありがとう、ありがとうね…』

『…………』

みんなで泣きながら松前漬けを頂きました。

自分たちが一番大変な時に、満足な食事も配られていないのに、私たちを思いやって下さる…

人は何と温かいんだ、と。

あの味は生涯忘れることはありません。

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あれから7年、私たち日本人は本来の思いやりや絆を取り戻せたでしょうか。

東日本大震災で世界が驚愕した、東北の方たちが見せて下さった人としての模範のような在り方。

強く耐え、泣き言を言わず、譲り合い、助け合う。

支援に向かった私たちが、逆にいつも勇気を頂いていました。

もちろん現地では様々なことも起こりましたが、

避難所の体育館で、仮設住宅で、強く生きる人々の姿に胸を打たれるばかりでした。

私の腕時計は、【3月11日 2:46】で止めています。

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『死んだ孫の形見を貰って欲しい』と、大切な方に頂いた宝物です。

いつも東北と共に。

これからも一緒に。

亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

「大切な皆様が、どうか今日も素晴らしい一日となられますように」

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