乃木、と聞くと真っ先に
思い浮かべることは
何でしょう?
やっぱり『乃木坂46』?(笑)
かつて、その乃木坂の
名前の由来になった、
日本が誇る
真のサムライがいました。
乃木希典(のぎまれすけ)将軍。
トルコやポーランドでは、
乃木希典を
英雄としてだけでなく
人格者としても尊敬し、
『ノギ』という
名前を子どもにつけるほど。
イスタンブールには
彼の名前にあやかって
乃木坂ならぬ
「ノギ通り」
が存在します。
今の日本人の多くは知らない、
そして司馬遼太郎の名著
「坂の上の雲」
では愚将扱いされてしまった、
この偉人の生き様と、
日露戦争時の日本について
紹介します。
現在の歴史教科書では、
日露戦争について2~3行の
記述があるだけですが、
日本が大ロシアに
勝利したこの戦争は
「世界の奇跡」
と呼ばれ、この勝利から
20世紀という時代が始まった、
とも言われる偉業でした。
力の差は歴然、
例えるなら
小学生の野球チームが、
戦略と戦術と
智謀の限りを尽くして
メジャーリーガーに
勝利するようなもの。
世界を揺るがした
大事件 です。
白人支配の世界において、
有色人種が歴史上、
初めて白色人種に
勝利した戦争。
日露戦争の
『日本勝利』のニュースは
瞬く間に世界へ広がり、
有色人種の国々ではもちろん、
多くの白色人種の国でも
喝采を浴びました。
インドのネルー首相は、
「長年、ヨーロッパに
苦しめられてきた
我々アジアの国々にも、
やればできるという
希望の光が差し、
子供のように熱狂した」
と談話を発表しています。
そして、この日露戦争の
日本の勝利から、
アジア・アフリカの
独立運動と
植民地解放の運動が
世界へと広がってゆきます。
ネルー首相の言う、
「やればできる」
という精神が
確実にアジア・アフリカに
根付いていきました。
日露戦争でもっとも重要で
激しい戦闘が行われたのが
中国の遼東半島にある
旅順 です。
ここにロシア陸軍の
強大な要塞が築かれ、
日本陸軍と激しい戦いが
繰り広げられますが、
このときの日本の
軍司令官が
乃木希典将軍でした。
日本軍は多くの
戦死者を出しつつも、
ついにその要塞を
攻め落とすことに
成功しますが、
乃木将軍の
二人の息子も
戦死してしまいます。
勝利を収めた乃木将軍は、
ロシア軍の総指揮官
ステッセルと会見します。
明治天皇より、
「ステッセル将軍の
面目を保つように」
とお達しがあり、
乃木大将は
日本の従軍記者に
会見場の写真を取らないように
指示しました。
しかしそれでは
従軍記者の役目が
果たせないということで、
一枚だけ撮影を許可しますが、
その際、乃木将軍から
出された指示は、
「敗軍の将の面目を
保つために、
我々と対等の立場として
ロシア人に帯刀を許し、
同じ人数で
同等のスタイルにして、
一枚だけ撮影を許可する」
というものでした。
敗戦国の兵士に対する
態度としては
世界的に異例中の異例の
出来事であり、
この乃木将軍たちの行動は
改めて日本の武士道精神の
高潔さを世界に
知らしめることになりました。
また、敗れたロシアの
ステッセル将軍は帰国後、
責任を取らされ、
ロシア皇帝より
銃殺刑を宣告されますが、
これを知った乃木将軍は、
すぐにロシア皇帝に手紙を送り、
ステッセル将軍が
死力を尽くして
祖国ロシアのために
戦ったことを
切々と訴えて
処刑の中止を願い出ます。
この一通の手紙によって
ロシア皇帝の心は動き、
処刑は中止され、
シベリア流刑に
罪が減ぜられた。
更に乃木将軍は、
残されたステッセルの
家族のために
自分が死ぬまで
彼らに生活費を
送り続けました。
さらに日本軍が凱旋後、
第一に行なったことも、
ロシア兵の戦没者の
慰霊でした。
「敗残者の悲しみと
悔しさは想像に堪えない」
と、まず敵軍の墓地、
顕彰碑を先に建墓しました。
そして、ロシア正教の
神父を呼び寄せて
慰霊を行ないました。
この話を聞いた
外国の記者たちは、
その寛大さと
日本精神の美しさに
息をのむほどの
感動を覚えたといいます。
後に、アメリカの
ウォシュバン
という記者は、
その感激をもとに
『乃木大将と日本人』
(講談社学術文庫)
という伝記を著しました。
現在の多くの
日本人は知りませんが、
乃木将軍は諸外国で
圧倒的な尊敬を集めた
日本人だったのです。
日露戦争から
さかのぼること数十年前、
乃木は西南戦争の際に
敵軍に軍旗を奪われたことを
恥じ入って切腹しようとした際、
明治天皇の執り成しによって
切腹中止を命ぜられました。
この恩を乃木は終生忘れず、
また、旅順攻撃の際に
多くの将兵の犠牲を償うため
腹を切って詫びたいと
明治天皇に申し述べた際、
『乃木の気持ちは分かった。
しかし乃木は、
今死すべき男ではない。
その命、朕に預けてくれぬか』
と命ぜられて
切腹を思いとどまります。
それから七年後、
乃木希典は
明治天皇崩御の日、
大葬の犠には参列せず、
弔砲の轟きを聞きながら
自宅にて妻と共に切腹、
静かにこの世を去りました。
現代の日本人が置き忘れた
武士道精神
を体現した偉人として、
語り継がれるべき
真のサムライです。
どうか今日も、
素晴らしい一日を。